革の光はすべて星

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Oh god!! I have no sense of humor! 

「チャッピー」見てきた。※ネタバレ有

みなさんこんにちは。sayaです。
 
先日、「チャッピー」を見てきました。
かなり大好きな映画でサイコーでしたので、
感想ともレビューともつかぬ、考察とも呼べぬアレですが書いておきます。
 
 
以下、映画「チャッピー」のネタバレあり!
結末に触れている部分があります。
未見の方はご注意ください。
 

Chappie: The Art of the Movie

 
 
 
 
 
 
↓ ※ネタバレ有!注意!
 
 
 

 

ヒトをヒトたらしめる境界は、一体どこにあるのだろう。

心、精神、意識、攻殻でいうところのゴースト、
これらを境界とするならば、その有無を判別する方法は何だろう。

人工知能のスカウト(ロボットの名称)であるチャッピーには、
まさにこの、精神、意識、ゴーストといった類ものが、あるように思える。
ヴィンセントは「お前は意識があると思い込んでるだけだ」と言い放つが、
果たしてチャッピーの意識は本当に「思い込み」なのだろうか。
 
人工知能は、本物の意識じゃないから? 
でもそれならそもそも、本物の意識って何だろう。
本物の条件とは。
人工知能と本物の意識に違いはあるのか。
判別できるのか。
人間の意識は思い込みではない」と、
断言できる理由はあるだろうか。
 

映画のラストでは、異なる3体のスカウトが提示される。

人工知能のチャッピー
②ディオンの意識を転送したスカウト
③ヨーランディの脳波をコピーしたスカウト

さて、彼らは人間だろうか?
それとも、ロボットか?

②のディオンは、「人間の」意識が転送されてはいるが、
見た目も意識の在り方も、チャッピーとすっかり同じになる。

③のヨーランディは、意識こそ脳波のコピーだけど、
①と②よりもずっと、人間の姿に似ていた。

そして①のチャッピー。
彼のことをただのロボットとはもう思えない。
映画の冒頭からずっと、成長を見守ってきたのだ。
なにより私たちは、人工知能ロボットであるチャッピーの振る舞いに、
いわゆる理想の「人間らしさ」ってやつを、見止めていたはずだ。
彼を取り巻く、生身の人間からではなく。

そう考えるとやっぱり身体は、ただの殼のような気がしてくる。
意識と身体は無関係ではないけれど、
それが自分そのものってわけじゃない。
ヨーランディはチャッピーに言う。
「ママは、あなたの心を愛しているの」と。

チャッピーは、自分のバッテリーの限界を知って、死を意識する。
彼は「どうして死んじゃうように僕を作ったの?」とディオンに詰め寄る。
これはまさに人間の、生きるものすべての、永遠の問いだ。
死ぬと分かっていて、なぜ生きるのか。
 
だけど最後にチャッピーたちは、
意識の転送によって、それまでの身体を捨てる。
新しい身体に自分の意識を移し、死を回避する。
「死」を超えた、異端の「黒い羊」たち。
彼らはこれからどう生きるのか。
 
ブロムカンプ監督の描く、「目に見えないボーダー」が、私はとても好きだ。
精神と身体。正義と悪。生と死。性別、人種、国籍、容姿。私とあなた。
それらは表裏一体であり、うつろいやすく、重要な要素であるけれど、
また同時に瑣末でもあるのだと、いつも示してくれる。


4人のこれからについては色々と妄想してるけれども、
「一人だけ生身のニンジャは今後、
 身体を捨てて別の何かに意識を転送するorしない」
という議題が今、私の中でアツい。
 
次回作もちょうたのしみ。おわり。
革ぜんぜん関係なくてGOMENNE!
 
 
saya